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教育基礎論

「教育基礎論」は教職課程の科目のレポートです。論述型レポートなので、レポートの形式はもちろん考察のレベルで合否が決まります。当レポートは未提出ですが、出せば合格できると思われるので、参考にしてください。

 

善と教育の関係を論じてください。
※著作権の関係上、課題の文章は変えてあります。

 

序論
善を巡る教育という課題に対して、本論文では、善を巡る教育問題とその解決について述べていく。人を善くする教育とはどのようなものだろうか。この問いを本論の指針とし、これに解答を用意すべく本論を展開する。第一節は教育と善の関係について、第二節では教育の理念について、第三節では教育の実践について、第四節では両概念の相補性によって、人を善くする教育について明らかにしていく。

 

 

本論

 

第一節:教育と善

 

教育の目的は、人を善くすることである。そこで本節では教育と善の関係について考察を加える。教育に先立って善という概念を定めるか、教育の過程で善について考察を加えるか、この違いは非常に大きいと言える。前者であれば教育とは善の実現のための手段であり、教育の目的は教育行為から切り離されることになる。したがってどう教育するかが問われる。後者ならば教育とは、人間を善い存在に近づけ、より善いものを模索していく過程そのものである。善とは何か、教育とは何かが問われる。
教育が善と密接にかかわっていることが分かったが、善を巡る教育問題が浮かび上がってきた。教育に先立つ善を認めるか、認めないかという違いが、教育にどのような影響をもたらすだろうかということである。

 

第二節:教育に先立つ善を認めない教育観

 

教育に先立って善を認めない立場に立つとき、教育は何ができて何ができないだろうか。本節では、この問いを通して、教育について考察を加える。
人間は善を求め、今より善くあろうと行為する事への欲求がある。教育とは善をめぐる問題であることは明らかである。ところが私たちは善とは何かが分からないので、善を知らないで善を望む、という事態に陥る。その善は一人ひとりが本来的に望むものである。このような状態で教育する(善を望む)というのであるから、教育とは子ども全員に対して何を施すべきかという具体性を欠く。この教育観では、絶えず「教育とは何か」が問われ、教育の理論が教育に影響を与えると言える。
教育とは、一人一人が善を模索するよう仕向け、不断の自問自答ができるパーソナリティを育む事である。一方、教育の具体的方略を決めることが難しいので、実際の教育現場で活かしにくいという問題の残る教育観であると言える。

 

第三節:教育に先立つ善を認める教育観

 

教育に先立って善の存在を認めると、教育は何ができて何ができないだろうか。本節では、この問いを通して教育について考察を加える。
絶対的な善を認める教育観は、こう教育するのが善い」という形を取る。そのような教育は絶対的な善が存在するという点で、前節の教育観とは異なる。この教育観が及ぼす影響を知るために、学歴主義が善と見なされていた教育について述べるのが適切であろう。宮崎(1996)によると、学歴社会とは「成員の社会的地位を決定する学歴の力が相対的に大きい社会」と定義づけられている。そして教育は、知識量、テストの成績、はめ込み型の思考に偏重したことはあまりにも有名である。この教育観では、絶えず「どう教育するか」が問われ、実践の問題が教育に影響を与えると言える。
教育とは善のための手段であるため、具体的方略を作り、実行することである。その一方、善とは何かの再吟味へと我々を動かすことはないため、独善的なものに陥る危険性をはらんでいる。

 

第四節:善を巡る教育の問題とその解決

 

善を巡る教育の問題とは、教育に先立って善を認めるにしろ、認めないにしろ、人が本来的に持つ善への欲求を実現できないことである。しかし「教育とは何か」と「どう教育するか」を相補的に組み合わせることで、この教育問題の答えを出すことができないだろうか。本節では、そのような考察を加えることで、序論に掲げた問いの答えを述べる。
まず「教育とは何か」を問うて、教育の理念を想定する。理念というのは、教育のあるべき姿であり、しかも実際の教育現場で実現されるものなくてならない。そこで「どう教育するか」と問うのである。教育を善の手段として問うのではなく、理念のために問うというところがポイントである。そうして具体的方略ができたら実践に移す。実践に移すことで、様々な問題が生まれ、実践可能な理念が見えてくる。ここで捉え直された理念が、新たな実践への指令となる。一連の過程には定められた善というものは存在しないが、だからこそ我々は絶えず善を求めている。これが善を巡る教育の在り方である。

 

 

 

結論

 

第一節で、教育とは善の実現である事は疑いえないのだが、善を巡る教育の間に対立が見られることを述べた。第二節では、教育に先立つ善を認めない教育観について述べた。この立場では、教育は一人ひとりが善について考察するという理念に偏重する。第三節では、教育に先立つ善を認める教育観について述べ、この立場では、教育は善い人間に近づけていく方略という実践に偏重する。教育の理論からは、教育の具体的方略が見えてこない。一方教育の実践だけでは、教育は一人ひとりが本来的に持つ善への欲求に答えることができないことになる。この不完全性こそ善を巡る教育の問題であることが明らかになった。第4節では、理念と実践を相補的に組み合わせて、教育が「教育とは何か」「どう教育するか」という二つの問いの間で円環することが分かった。これによって、序論に掲げた問い「人を善くする教育とは何か」について次のように答えることができる。
はじめに、「教育とは何か」によって教育のあるべき理念を定める。次に「どう教育するか」によって子どもの善への欲求に可能な限り関連した課題を与える。そうして善へのより高次な欲求を生じさせたら、第一の問いに戻るのである。このような絶え間ない円環が、人を善くすることができる教育の在り方であると結論付ける。

 

 

 

 

 

 

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